境界
蝉はまだ鳴き始めていない、初夏のことだ。
陸緒が昼休み、窓際に立っていることが多くなった。もちろん、明石が声をかけた時、用がある時は、こちらを向いて話を聞いてくれる。しかし、何もない時はたいてい窓際にいて、窓の外を見ているのだった。何をしているのだろう、と近くに寄ってみると、一人で窓の外にむかってなにか話している。だれか、仲良くなった怪異でもいるのだろうかと視線の向く先を見たけれど、誰もいない中庭があるばかりで、誰かがいる様子はなかった。
「お昼に誰かとお話されてましたけど、僕には何も見えませんでした。視るのに条件がある怪異の方ですか」
話を中断させるのも悪いと、昼休みの終わった後に、交通課の書類を分類しながら尋ねてみる。すると、陸緒はああ、と否定とも肯定ともとれない返事をしたあと、作業の手を止めて、中庭にあるプランターを指さした。
「中庭に、フウセンカズラが来ただろう」
「迷冥第三小学校から贈られてきたものですね。もう暑いのに、元気に育っててすごいなあ」
毎年、子どもたちが小学校の課題でフウセンカズラを育てるので、そのおすそ分けが市役所に贈られてくるのだ。プランターにいくつか植えられたフウセンカズラたちは、窓際に網を張った上に、カーテンのようにつるを這わせて設置されている。贈られてきた当初は明石の膝ほどの背丈しかなかったのが、最近は窓を覆うくらいに成長した。緑で覆われて出来た日陰は、建物が作り出す日陰よりも涼しく感じて、明石も気に入っている。
「そう、そのフウセンカズラと話していた」
「……話せるんですか?」
なんでもないようにうなずいて、陸緒は窓の側まで歩いて行く。
「毎年やってくるものだし、俺は、話せる事が当たり前だと思っていたんだが。きさらぎさんや御先さんとはあまり話さないらしくてな。あちらからしてみれば、俺は怪異でも人間でもない存在で、面白がられていたのかもしれない」
食べている菓子を取られそうになるのだとか、水が足りないからとっとと水やりをしてくれと言われるのだとか。他愛もない事を話すのだと、陸緒はぽつぽつと話した。
「お前も話してみるか?」
「……僕には、植物の声が聞こえないです」
「そのうち、分かるようになるかもしれない。一度聞こえると賑やかだぞ」
陸緒が窓の外を見て目を細めた。やはり、明石には何も聞こえなかったが、その様子は、小さい子どもの耳打ちを聞いているようで、居心地の悪さは感じなかった。
「ほら、新人のお前を歓迎してる」
言った途端、蒸し暑い中庭に、強い風が吹いた。窓の外の葉がさらさらと揺れる。明石には、フウセンカズラが自分を認めたからなのか、それとも偶然なのか、判断する事は出来なかった。
でも、陸緒がそう言うのだから、きっと真実なのだろう、とも思った。
執筆:20240620
公開:20241110
影響を受けたもの:梨木香歩『家守綺譚』