その場所に至る
ロゼからもたらされた情報は、八敷が興味を惹かれるに足るものだった。
人形怪異の「遊び」に巻き込まれ、今なお怪異との命がけの対決を繰り広げている、一人の少年。ロゼの端的な報告でも、その壮絶さは耳をふさぎたくなるものだった。親友と友人を相次いで失っても、終わりの見えない「遊び」。
どれだけ強い人間の心でも、擦り切れて折れてしまうような状況で、一人で立っている。
八敷も、人形の怪異であるメリィの標的になった人間の一人だ。忌まわしいシルシを刻まれ、調査を行う間、何度も命の危機にさらされた。人間がいとも簡単に怪異の餌食になる瞬間を見続け、そのたびに命からがら生き延びた。もっとも、生き延びられたのは八敷の力だけではない。あのおぞましい事件に巻き込まれた他の印人たちが、協力をしてくれたからに他ならなかった。
いま調査をしている事件を追いつつも、日本からの電話を気にする日々が続いたある日、ぱたりとロゼからの連絡が途絶えた。ロゼはああ見えて報告を怠る人間ではない。いやな予感が頭を駆け巡り、調査を出来るだけ早く終わらせてH市に取って返した。
バーに飛び込んだ八敷を待っていたのは、惨状だった。
頸動脈を引きちぎられ、倒れる女性と少女。あたりに飛び散った血液の海。広がるどす黒い赤色の中心で、ゆらりと佇んでいる少年の黒いパーカーは、その少女のものか、女性のものかもわからない血液で濡れていた。思わず息をのむと、炎に似た瞳が八敷を睨みつける。
遅かった。後悔と焦燥感が脳裏をかすめたが、かぶりを振って身構えた。思考を切り替える。今すべきことは彼を止めることであり、後悔に身を浸すことではない。
「許してくれ、鬼島空良」
人の形を失った彼をどうにか一時的に鎮め、膝をつかせるころには、八敷も肩で息をしていた。
力を失った怪異は、己が作った血だまりに崩れ落ちる。獣のような低いうなり声が聞こえる。ちらちらと揺れるように光を放っていた赤い瞳が、一瞬炎のように大きく燃え上がった。愕然としたように、残った掌を見つめていた怪異は、小さな声でなにかつぶやく。口が動くのは見えたが、何を言っていたかまでは聞き取れない。
「おれは、死ぬのか」
明らかにこちらに向けた言葉だった。その言葉はやけに冷たく、乾いた笑い声とともに零されて、足元がぐらぐら揺れるような心地がした。
「そうだ。俺が、」
もっと早く来ていれば。頭に浮かぶのはそればかりだ。
じっとしたまま動かない怪異を見やると、瞳の燃え上がるような赤色は消え去り、普通の人間のような顔が、目が、こちらを見ている。真っ暗な瞳は何も映していないようで、八敷をしっかり捉えていた。
「俺の名前は何になるんだ、家族殺しの男か、それとも、赤目男、とかか」
うなだれて、彼は力なく吠えた。ふざけんじゃねえぞ。
「おれは鬼島空良だ。それ以外の誰でもない。俺は」
彼が、バーのカウンターに拳をたたきつけた。カウンターはみしりと軋んで、彼の拳についた血液がその周りに飛び散る。
「……俺は。愛海がいて、那津美さんがいて、天生目と葉月がいて、夜にはよく眠れるんなら、それでよかったんだ」
クソ。最後に吐き捨てた言葉は震えていた。フードから覗く目は、赤い光を取り戻しつつあった。ここで、終わりにしなければならない。
「鬼島空良。もうお前は人間じゃない」
カウンターを殴った左手が握りしめられている。
この時だけは、怪異と、もとは人間だった魂と対峙することだけは、何度経験しても慣れなかった。
「でも、俺が覚えてる」
お前の名前を。お前が人間だったことを。怪異を関わらなければこんな姿にはならなかったかもしれない、俺がもう少し早く来ていれば、どこかで違う道を選んでいたら、こんなことにはならなかったかもしれない、ただの人間であることを。
「せめて、もう誰も傷つけないように、眠ってくれ」
白い光があふれる。最後に見えた彼の顔はくしゃりと歪んでいて、微笑んでいるようにも、泣いているようにも見えた。
もう、彼の名前を呼んでくれる人間はいない。時間は巻き戻らない。死んだ人間はかえらない。それでも。
執筆:20200719
公開:20241110