君は片割れでは無いけれど
ずいぶんとはっきりした夢だ、というのが、ぐるりと見渡した状況に対する、中堂の感想だった。
夢の中は、日常と何ら変わらない。いつも通りの自分の部屋に、いつも通り久部六郎が座って本を読んでいた。表紙を見やるとそれは法医学の本で、UDIでならよく見かけるその本を微動だにせず読むその姿も、普段と何ら変わらなくて、ああ、仕事を終えてからも勉強しているなんて熱心だな、なんて関心してしまったくらいだ。 しかし、それは確かに夢だった。目の前に、死体があったからだ。
確かに中堂には、殺してやりたい人間がいる。未だに尻尾を掴ませないそいつの正体を暴くことが出来たなら、己の手で殺してやろうと考えているのも、紛れもない事実だった。ではなぜ夢であると分かるのか。まず、ここは中堂の自宅だった。正常な判断をしたならば、自宅で殺人を犯すなどという事はしないだろう。自分が犯人である証拠を、みすみす増やすことになりかねない。
そしてもう一つの理由は、久部六郎の存在だった。久部六郎は、死体を怖がり、殺人を悲しむ、ごく普通の人間だった。UDIにさえ入らなければ、変死体なんて一生見ることはなかったであろう、一般市民の鑑のようなやつだった。その久部が、目の前の死体に臆することなく、ただ本を読んでいる。日常を再生しようとしている。それが、とんでもなく違和感だった。だから、きっとここは夢であるに違いない。
「中堂さん、大丈夫ですよ」
ふいに、久部が本から視線を上げる。細められた目は台所に向かった。
「夕飯、食べましょうか」
「久部」
場に似つかわしくない一言に、思わず名前を呼んだ。何を言いたかったのかは、分からなかった。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
柔らかな表情で安心させるように、大丈夫、と繰り返す仕草は不自然なくらい中堂が思い描く久部六郎そのもので、脳がぐらぐら揺れるのを感じた。
「これ、一回どけましょうか。中堂さんが座れないし」
久部が『これ』呼ばわりしたのは、間違いなく先ほど自分が殺したはずの死体で、少し安堵する。
やはりここは夢の中らしい。久部は死体に敬意を払う人間だ。しかし、夢の中とはいえ、死体を横目に食事をとる気には、確かになれなかった。足の方を持ってください、と言われたので素直に従い、部屋の端に移動する。物言わぬ死体はあっという間に、どこからか現れたたブルーシートに包まれた。なんとなしに顔をのぞき込んだが、ぐにゃりと歪んだり真っ黒になったり、あるときはカラフルな絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような極彩色に変化したりしていて、もとは一体どんな顔をしていたのか判別がつかない。当たり前だ。中堂は犯人の顔を知らないのだから。
死体があった場所に腰を下ろすと、埃一つないきれいなテーブルにごとりとどんぶりが置かれた。中身はカツ丼で、湯気が立つそれからは、きちんとソースと揚げ物の匂いがする。自分の夢ながら、やたらリアルだ。カツ丼を前にして、中堂の腹がぎゅう、と小さく音をたてた。
「人を殺しても、食欲はあるんだな」
意外だ、と思った。人ひとりの命を止めてしまったら、その後はしばらく食べなくても生きていけるような気がしていた。
「死なない限り、お腹は空きますから」
慰めなのか、当たり前だということなのか分からなかったが、久部はけろりと言った後、どんぶりの中のカツに箸を突き立てていた。
それらがぱくぱくと久部の胃に収まっていくのを見て、中堂もようやく箸を持つ。 味はしない。しかし、どんぶりが空になるまで、二人は一言も口をきかなかった。どんぶりの中身をきれいに平らげてしまうと、久部が息をつくのが見えた。端によけた死体を見やると、どこか諦めたような顔で笑う。
「中堂さん、大丈夫ですよ。この人は、中堂さんに殺されて、死ぬ運命だったんです」
「死ぬ運命なんて誰にもない」
「どうしてですか。中堂さんの恋人を殺したんでしょう? 死んで当然です」
「お前が」
そんなことを言うな、と叫びたくなった。あの久部が、命をどこかのゴミのように扱うのを、薄ら寒い、死と運命について紐付けする発言を、見たくなかったのだと、中堂は気づく。たとえ自分の夢でも、そんなことは許しておけなかった。
「大丈夫です、ぜんぶ元通りになりますから」
人が死んで、元通りになることなど、ある訳がない。しかし、何も言えなかった。犯人を殺したのは、己だったからだ。
「ねえ、中堂さん」
埋めちゃいましょうか、二人で。 その言葉を聞いた瞬間、頭に血が上るのを感じる。胸ぐらを掴んでやろうと伸ばした右手が、久部から遠ざかっていった。アラームの音が聞こえる。 ああ、目覚めるのか、と気づく。夢の最後で、久部の顔は歪んでいて、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「貴方が殺したくせに」
アラームの音は鳴り続けている。中堂は手を伸ばして、スマートフォンを探し当てる。音は止まったが、目覚めは最悪だった。ぐう、とうなるような声とともに体を起こすと、そこは自宅ではなく、見慣れたUDIのソファの上だった。そういえば、昨日は帰るのが面倒になってここで寝たことを、覚醒し始めた頭が思い出す。
「おはようございます」
声がした方に視線を向けると、久部が自分のデスクに座っていた。
「今日は早いな」
「ちょっと、用があったので」
デスクを見ると、ノートパソコンが起動していた。
「法医学をもっと学びたいと思ったんです。受け身になってるだけじゃあ、だめかなって」
久部はノートパソコンの画面を閉じながら、照れたように早口で付け足した。その手元には法医学の専門書も置かれていて、そしてそれは、夢の中で久部が読んでいた物と同じもので、中堂は背筋が凍っていくのを感じた。
「くべ」
「なんですか」
返事をしながら、久部は立ち上がった。減ってしまったコーヒーを淹れなおすようだ。
「俺の分も淹れろ」
「あ、わかりました」
程なくして、マグカップが二人分、ソファの前のテーブルに置かれた。久部もここでコーヒーを飲むつもりらしい。さっきまで手元にあった本を読みながら、カップに手を伸ばした。夢の中の景色が、目の前の光景と重なる。現実と夢の境界が曖昧になるような感覚に、中堂はたまらず問いかけた。
「なあ。俺が人を殺したと言ったら、どうする」
「えっ、殺したんですか」
「たとえば、だ。殺してない」
今はまだ、と脳内で付け足した。婚約者を殺した犯人が分かったら、きっと自分はその首に手をかけてしまう。中堂が真剣な目つきをしていることに気づいたようで、久部は、神妙な顔でコーヒーを啜った後、しばらくしてから口を開いた。
「何でそんなこと思ったのか、俺には分からないですけど」
大丈夫ですよ、と久部は言った。ぎくりとする。夢と同じだった。そんな中堂をよそに、久部はさらに続ける。
「僕は、……僕たちは、中堂さんに殺人をさせません。中堂さんが誰かを殺す前に、止めて見せます」
久部は真っ直ぐこちらを見据えている。その瞳は、中堂を諭すときの三澄によく似ていた。人間に牙を剥く死と向き合う、意思を持った瞳だ。
「ミコトさんだって、同じ事を言うと思いますよ」
「……そうだな」
中堂は、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。UDIのドアを開ける音が聞こえる。おはようございます、と久部がドアを開けた主に声をかけた。その瞬間、日常が帰ってきたように、UDIに音が溢れていく。人を殺して罰を受けることは、当然だ。もし犯人を殺したら。ゆっくり眠れなくなるかもしれない。コーヒーが飲めなくなるかもしれない。ここの音が、聞けなくなるかもしれない。それは少し、ほんの少しだけ、さみしいことだと、中堂は思った。
それでも、コインが裏返る、その音を聞くまでは。空になったマグカップを眺めながら、中堂はしばしの間、話し声に耳を傾けていた。
執筆:20190613
公開:20241110